村八分

村八分 · 23日 2月 2023
2023年の現状
随分と久しぶりのこのカテゴリーの話。しかしその位の方が良いんだろうと思うが、古参の読者(いるのか?w)には続きをブログで明言しているので経過報告と言う事になりますね。でははじまりはじまり・・・
村八分 · 06日 4月 2019
2019年4月、平成も残り少ないと言うか5月から令和だ。 この4月より地区では商売人としているだけで住民としては他の自治体で生活している・・・あくまでも公式に認められたと言う事でこのスタイルは店をリニューアル工事している時から始まってはいるのだが。 このコミニュティから離れれるチャンスは今に思えば何度かあった。一つ目は他店での就職した時、2つ目は父親が亡くなって店を継がなかった場合。3つ目は店舗住宅をリフォームせず廃業しこの地を離れる選択肢を選んだ場合・・・ 結局、父親の後を継ぎ、店をリニューアルし現在に至るわけだが・・・
村八分 · 05日 4月 2019
10回目まで続いてしまった・・・まぁこれでも端折ってるんだけど。今の所、反響は無い。これから先も無いかもしれないけど。ただ自分自身としての記録、想いは多少、多少だが残せたかな。デジタルなのでどうなのか?って考えが今も頭にあるのは昭和生まれのオールドタイプかも?しれないねw さぁいよいよ総会の中に飛び込む。この1週間色々考えた。出るつもりは無く、役の人に促されても断っていたのだが、ほんとにもう嫌なんだが最後だしな・・・気が重い、結局出る羽目になる。一応、カラーの流しもあるし、お客さんには万一15分過ぎて戻れてない場合は携帯に電話するようにお願いしていた 「じゃ、ちょっと行ってきます。」お客さんに声をかけて重い足を動かす。数十メートルの会場がやけに遠い・・・
村八分 · 03日 4月 2019
出来る範囲で地域のコミニュティは参加していけるならそれに越した事は無いと今も思っている。 冷えた人間、人間関係だろうともこの場所に営業所・事務所機能があるのはこれからもだし、売れる物なら売りたいが買い手がない。あっても二束三文である。今後、営業所・店のない訪問事業は活動を認められなくなる可能性も十分あるわけで雇われ人として生きる先が無い以上は閉鎖はできない。 今後、状況が変わるのに、この地区はどれくらいの時間が必要か自分が現役の間か分からないが、過疎対策として外人を含む外部の人に格安で物件を貸す、売る事も考えられる。田舎と言っても大阪だし都心部には車だと短時間で移動できる場所である。 どこでも日本人の多くは今後、電車沿線の側に住居を求めるだろうし、現役を終えた後にUターンは考えにくい。 今後、散々蜜を吸って破綻した小さな自治体は合併され広域行政になるだろう。 訪問事業を中心とした仕事はシニアにはキツイ仕事で後々には若い人に譲渡や委託を検討する事になる。 もちろん金銭問題なくなれば老後は早めに引退もしたいが、今のところは動ける間は店に立つ必要がある。年金は国民年金。
村八分 · 02日 4月 2019
地域区分の場は雰囲気が何となく陰の空気が流れるように感じるところで特に外部の者に対して壁を作り疎外する人が多い。隣の区分だとそこまでは感じないが・・・。 この地で長く仕事を続けてきた祖父母、そして父親にはまったくもって頭が下がる。 今の時代、それでも昔よりはいくらかは変わってきているし、コミュニティから外れても生きてはいける。しかし、都会のソレとは違い関係性を切る事は困難で地域の費用負担や掃除だけでない。ましてや仕事を拠点を構えている店である。大きな会社ならいざ知らず個人の零細である。普通は近所の誰かが当店を利用する人もいてるだろうし、またそれがあるからこの難解な地域の負担や仕事、役も無理してでも引き受けるんだがそれも今は勝手な部分だけが残っていてそういう部分を何も考えない人が多くなってきた。 時代の流れもあるし、買い物だってネットでも買う時代だしそれならそれで仕方ないが、役回りだけ押し付けて知らん顔ってのもね。 特にウチのような血縁や親族がいない仕事があるからいるって場合は仕事が無けりゃ生きていく手段も変更しなきゃならないわけで、外部に仕事を求めるのは当然。
村八分 · 29日 3月 2019
書き出しててなんなんだが、こんなに長くなるとは思わなんだ・・・ これでもね、端折って書いて、オブラートに包んでいるんだけども、長くこの地で苦労してきた先代、先々代に対して自分が根を上げる事は申し訳ない気持ちとココまで我慢した悔しさ、なんでウチだけがさぁ・・・もうここらで良いよね・・・みたいな気持ちは当然あるわけで諸事情や期待だけで田舎で過ごした都会の人、コミュニティに断念した人なら分かるだろうけど、それでも不思議と矛盾した離れたくない気持ちもどこかにあるわけで、どう転んでもスッキリはない。 何とも思ってない住民もいるにはいるけど、ほんの少しでも思ってくれる人いないかなぁ・・・などと書いてみる。 今になって住民の少しの情がやけに沁みる。自分だって40年過ごした土地だ。良い事が0でしたとは言いません。 この後もまだ仕事の関りがこの地にあるわけで、いくら読み手の少ないブログとは言え、この土地での仕事に関してマイナスな部分もあるのは分かっている。でもどこかで吐かないと区切りがつかないし、何かの想い、気持ちは書き留めておきたい。いつの日か住民の誰かがこのブログ記事を知る事になっても。
村八分 · 27日 3月 2019
昭和時代は生活圏・経済圏は狭く、その地で完結するのが実情で合う合わないはあっても間接的には関りを持たざる得ない。理不尽でも悔しくても仕事がそこにはあった。父親の時代は今より人が多くいた為に良い人合う人も当然多くなる。悔しい事と嬉しい、ありがたい事と天秤にかけれるくらいであった。 しかし月日が流れ平成も半ばを過ぎると人の流失は止まらない。なじみのお客様も高齢化、次世代の担い手も仕事で郷土を出る・・・減る要素しかない。 人が減るとは残った住民の自治の負担が増える事。時代と共に変化していく部分と変えられない部分。仕事は無いが地域負担が増大する。ネットの普及により田舎での商売でも問題ない業種や上手い人もあるが、我々の商売はアナログで足を運んでもらう仕事。平成不況はずっと続くわけで低料金に流れる人も・・・田舎ではすでに免許、車は必須であり、車なら15分もあれば鉄道の駅に着く。日常の生活ならその辺りで済ませる事も十分可能で徒歩の生活圏での仕事は成り立たなくなっている。当地の商売人はすでにウチと隠居商売の食堂があるのみ。しかも数百メートル先にあの憎きスーパーセンターがでーんとあるわけで・・・
村八分 · 24日 3月 2019
自身がこのお店を営業し始めて分かった事は、トラブルを超える度にお客様の数が減っているという事だった。 父親の入院、葬儀前後の臨時休業などとにかく不定休に休む期間が多かったのもある。また自分が継ぐにあたっての準備期間も宣伝も必要。お客様を父親から引き継ぐと言う期間が無かったのでワタクシを知っている方や店を気に言ってくれる人などが中心になるしかなく、父親を気に入っていた人が世代交代によって離れる事もありました。店自体は良い風に言えば昭和レトロ。悪いように言えば時代遅れ。 ネットは普及期に入っていたのでHPを立ち上げる事は可能だが、書き込める内容もなく、売りにできる施設、設備もない。 頭の中で計画した事も資金が無ければできないし、やっぱり改装もしたい。そんな思いでいっぱいだ。ただ数年前から延長された近くの国道近くにスーパーセンターが出来ると話があり、出店できるなら地域の中心地になる商業施設な上に同地区の現店舗から移動も少なく、新規客も獲得しやすい。経営さえ上手くいけば問題解決だ・・・ たまたま当時その会社の社員と知り合う機会にも恵まれ、流れは一気に来たように思え、想いをすべてその
村八分 · 23日 3月 2019
ワタクシはこの土地で長く暮らしてきました。子供の頃はまだ同級生も多くそれなりに辛い事も経験しましたがお祭りを始め子供会やソフトボール大会など昭和の末期から平成の序盤にかけてまずまずの人生送れたのかもしれません。 高校生ぐらいになると理不尽な事もあったりする中で商売の家としては仕方ない部分もあるんだろうと無理から納得させました。仕事がそれなりにあったとは言え、本当に父親は凄かったと思います。 やがてワタクシは成長し、20前後の頃には就職する時期がきます。丁度その頃、運悪く就職氷河期を迎えます。ワタクシは就職を選ばずフリーアルバイターとしての道を歩む事になります。当初は自由に働いていける楽さと若さ、次のステップを探す毎日に稼ぎは少なくとも充実した毎日でした。
村八分 · 22日 3月 2019
ワタクシの父親はガンで10年以上前に亡くなりましたが、今思えば時代もありますが、このような八つ墓村のような場所でよく頑張ってたなぁ・・・悔しい事も山ほどあったろうな・・・とつくづく感じます。 父親も元々この仕事に就くつもりもなくやりたい事もあった方ですが、祖父の大反対もあり普通に就職する事になりました。店は叔父が継いでおりました。 祖父は大病を患い40代でこの世を去ったと聞いています。店は祖母と叔父が運営しておりそれなりに繁盛していたそうですが、叔父はあまり素行の良い人とは言えず仕事を辞め堅気の道から逸れてしまいました。 そこで父親が資格を取得し叔父の代打として店を請け負う事になったわけです。 まだ昭和の半ばでこの田舎の村には色んな風習、習慣が幅を利かせております。この地で仕事をさせて頂いているわけで所謂、お客様は神様状態。近所で発言権なんてありません。言おうものなら袋叩きです。貝になるしかない。嫌な役目は何かしら理由を付けて押し付けられます。 それでも耐える。「おしん」なのです。 救いは日本は戦後復興から高度成長期に入りそれなりに稼げていたことでしょうか?

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